西暦(和暦) |
年齢 |
主な事蹟 |
写真 |
1916(大正5年) |
0 |
8月15日 嶋田徳三、母ハルの長男として、本庄に生まれる |
1931年頃
中学時代のスナップ
1939年頃
奈良にて 修学旅行中 |
1920(大正10年) |
4 |
父から「王様クレヨン」を与えられ、大樟を描き始める |
1921(大正11年) |
5 |
上城井尋常小学校に入学。大樟の絵を描いたら、先生が褒めて教室にはってくれた事で、自信をつける。将来は絵描きになりたいという夢が芽生える。 |
1928(大正27年) |
12 |
豊津中学校に入学。母が急死。大樟の絵を描いて表彰される。 |
1933(昭和8年) |
18 |
東京の美術学校への進学を希望するが、家庭的な事情(母が亡くなり、幼い兄弟が下に5人いた)からあきらめ、小倉師範学校への進学を選択する。 |
1934(昭和9年) |
19 |
小倉師範学校に入学。大樟を水彩画で描いて、美術の先生に認められ「大樟を油彩で描いてはどうか」と勧められ、油彩の手ほどきを受ける。 |
1937(昭和12年) |
22 |
専攻科に入学し、数学を専攻するかたわら、美術の勉強を続ける。 |
1938(昭和13年) |
23 |
現北九州市若松区の修多羅(すたら)小学校に奉職。その後、椎田国民学校に奉職して終戦を迎える。戦後は、新制城井中学校の数学と美術の教師となる。 |
1951(昭和26年) |
35 |
日展に『本庄の大樟』を初出展する。 |
1957(昭和32年) |
41 |
水彩で『鎮守の森』(10号)を作成、その後城井中学校創立10周年記念誌『さかいもり』の表紙デザインを担当する。 |
(昭和30年代) |
40〜50 |
太宰府在住の日本画家小野茂明氏の助手として、築城町内上香楽(かみごうらく)淡島神社の格子天井画作成。小野先生より日本画の手ほどきを受ける。 |
1966(昭和41年) |
49 |
県展日本画入選(50号:鎮守の森)。 |
1972(昭和47年) |
57 |
全日本美術協会主催「第10回全展」(於:上野の森美術館)に根元に着目した「本庄の大樟」(P50号)を出品し、会員に推挙される。以後、毎年東京本展や九州展に出品する。 |
1975年頃
運動会にて |
1974(昭和49年) |
59 |
日本画「鎮守の森」と同じ構図の50号(油彩)を第12回全展に出品する。 |
1975(昭和50年) |
60 |
第13回全展に「城井殿様の墓」(50号)を出品する。3月、椎田中学校長を最後に定年退職。4月から城井中学校で7年間(57年3月まで)美術講師を務める。 |
1977(昭和52年) |
61 |
第15回全展に「老樟」(50号)を出品する。9月、10号4枚の連作「四季の大楠」を全日本美術協会豊前支部展(於:行橋市寿屋画廊)に出品。 |
1978(昭和53年) |
62 |
第16回全展に東からの大樟(50号)を「老いて益々盛んなり」と題して出品する。同年の全展九州作家展(於:北九州市玉屋画廊)には、同絵のほか天徳寺にある「城井殿様の墓」(4号)と「城井郷城跡」(8号)を出品。この50号は後に老人保健施設青海山荘に寄贈する。 |
1979(昭和54年) |
63 |
全日本美術協会フォーカス作家に選抜される。第4回フォーカス作家選抜展に東からの姿を再構築し点描で描いた大楠を「本庄の大樟」(50号)として出品。築城町役場に寄贈し、町長中畑末松氏より感謝状を受ける。以後、年2回、東京展に出品。同年、第17回全展に「西から見た大樟」(50号)を出品。 |
1980(昭和55年) |
64 |
第18回全展に「父と娘の大樟」(50号)を出品。後に下本庄公民館に寄贈する。 |
1980年代
上野の森美術館
1983年春
教育委員会賞受賞
全日本美術協会(全展)
1984年
アラブに贈る絵の準備
1988年
大樟と私の講演
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第5回フォーカス作家選抜展に「本庄の大樟:西からの姿」(50号)を出品。東京の渡辺興業株式会社社長渡辺恵美子氏に寄贈。同氏経営の「スナック博多」(東京都港区白金)に飾られている。 |
大樟の葉が変色し枯死するのではと心配。「枯死寸前」(10号)を描く。 |
「雲と山を描いた、疲れが取れるような絵がほしい」と依頼され、「英彦山遠望」(50号)を築城町内片山医院長に謹呈。 |
1981(昭和56年) |
65 |
第19回全展に「老いて益々盛んなり」(東からの全景)を出品。 |
第6回フォーカス作家選抜展に「英彦山遠望」(30号)を出品。 |
NHK北九州放送局の製作番組「楠を描いて60年」が放映される。 |
青蓮保育園にて絵画指導(86歳まで続ける) |
築城町の大楠神社境内にある下本庄公民館に、「父と娘の大樟」(50号)を寄贈し、町内会長中野隆氏より感謝状を受ける。大樟の葉が変色し枯死するのではと心配されていたが、新芽が出て枯死は免れたとの報道あり。記録として「枯死免れる」(50号)を描き、いきさつを綴った説明文も書く。 |
1982(昭和57年) |
66 |
第20回全展に「老樟孫生(ひこばえ)」(50号)を出品。サンケイ新聞(昭和57年12月13日夕刊・14日朝刊)に掲載される。TNC(テレビ西日本)で、この画を中心に「本庄の大樟を描いて60年」として放映。第7回フォーカス作家選抜展のテーマ「城」に合わせて南蛮白亜造の「小倉城」を出品。 |
1983(昭和58年) |
67 |
本庄の大樟を全国に広めた功績により、町長吉元実氏より表彰状を受ける。 |
第21回全展に「本庄の大樟蘇生するA」(50号)を出品。全展委員となる。「美術グラフ」〔三月号〕に掲載。 |
第8回フォーカス作家選抜展のテーマ「賑」に合わせて北九州市戸畑区の提灯山笠」を題材に「回る火の山」(50号)を出品。 |
毎日グラフ(昭和58年2月号)、美術グラフ(日本美術出版専門月刊誌:昭和58年6月号〕、昭和芸術史「現代と古代」の特別季刊誌、築城町の「広報ついきまち」(58年9月号)、芸術家年鑑などに掲載される。 |
全日本美術協会賞。全展九州支部合同展(於:北九州市立美術館)に「老いて益々盛んなり」(50号)を出品。教育委員会賞受賞。 |
1984(昭和59年) |
68 |
NHK北九州放送「福岡県の名木:本庄の大樟」放映。 |
第22回全展に「本庄の大樟蘇生するB」(50号)を出品し、全日本美術協会委員努力賞受賞。 |
第9回フォーカス作家選抜展に「今と昔」のテーマで「小倉城」(50号)を出品。 |
娘夫婦の在アラブ首長国連邦日本大使館赴任に際し、「大樟3部作」を贈る |
1985(昭和60年) |
69 |
サロン・ド・パリ正会員となる。 |
NHK福岡放送局にて生放送で「本庄の大樟」について語る。 |
1986(昭和61年) |
70 |
アラブ首長国連邦ドバイ市在住のオーストラリア人イアン・ブラックマン氏(海運会社役員)に「大樟」を贈る。 |
第1回サロン・ド・パリ本展に「国の天然記念物本庄の大樟蘇生するA」を出品。芸術公論賞受賞。 |
1987(昭和62年) |
71 |
娘夫婦と共に自宅を訪れた、バングラデシュの外交官、V.I.チョードリ夫妻に「大樟」を贈る。(新聞報道) |
第2回サロンドパリ「国の天然記念物本庄の大樟蘇生するB」(30号)でサロン・ド・パリ芸術グラフ賞受賞。サロン・ド・パリ委員となる |
1988(昭和63年) |
72 |
第3回サロンドパリ本展に「国の天然記念物本庄「大樟蘇生するC」(30号)を委員として出品。 |
1989(平成元年) |
73 |
第4回サロンドパリ本展に「国の天然記念物本庄の大樟蘇生するD」(30号)を出品。 |
1990(平成2年) |
74 |
RKB毎日放送「緑の日:本庄の大樟紹介」放映。サロン・ド・パリニューヨーク展に「国の天然記念物本庄の大樟A」(東からみた全景)を出品。 |
1997年
襖絵の説明
1998年
巨樹に親しむ会来訪
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1991(平成3年) |
75 |
NHK福岡放送『ふるさと緑紀行』にて「本庄の大樟を描いて70年」放映 |
サロン・ド・パリ、東京展に「国の天然記念物本庄の大樟孫生」(30号)を出品 |
1992(平成4年) |
76 |
NHK福岡放送『ふるさとメッセージ』にて大樟の紹介 |
1993(平成5年) |
77 |
FBS福岡放送(日本テレビ系)『日本の巨木シリーズ』福岡県代表として本庄の大樟紹介(全国放映) |
1994(平成6年) |
78 |
テレビQ『築城町の名所旧跡』にて本庄の大樟紹介 |
1995(平成7年) |
79 |
浄興寺本堂新築に際し、障壁画一対(「福」と「寿」)を寄進し、住職竹本公彦氏より感謝状を受ける。 |
1996(平成8年) |
80 |
FBS福岡放送にて『本庄の大樟会』放映の中で紹介。 |
KBC九州朝日放送にて『鎮守の森』シリーズの中で「樟を描いて75年」として紹介。 |
1997(平成9年) |
81 |
11月 、RKB毎日放送、生放送にて「本庄の大樟」紹介。 NHK北九州放送局にて「浄興寺襖絵」紹介。 |
テレビQにて「浄興寺襖絵」紹介。 |
1998(平成10年) |
82 |
6月、東京に本拠を置く「巨樹に親しむ会」(会長:宗田 隆氏)の会員30名が「九州巨樹巡りツアー」にて大樟見学(新聞報道) |
4月、中国の師範学校の先生にかねてより作成していた二首の漢詩(7言絶句)を添削していただき、「本庄の大樟」を詠んだ漢詩4編が完成 |
10月、椎田町老人保健センター青海山荘に「大樟」50号2点寄贈。(新聞報道)同年12月〜
椎田町老人保健センター青海山荘にて絵画指導(2000年まで) |
1999(平成11年) |
83 |
NHK福岡放送局『知っとお福岡』にて「老いて益々盛んなり」として大楠と共にこれまでの作品を紹介。築城町主催「嶋田隆作品展」開催。 |
2000(平成12年) |
84 |
8月、福岡県退職校長会主催の芸術祭(田川市立美術館)に、「大樟」50号1点出品
。同年10月 妻洋子死去(享年80歳) |
2001年
友人からの感謝状
後藤忠雄氏(響ホール元館長) |
2001(平成13年) |
85 |
小倉師範学校時代の友人で 北九州市立響ホール館長である後藤忠雄氏の勧めで、同ホールに「大樟」50号2点寄贈、除幕式をおこなう。同年9月
、 築城町老人保健センター「誠松園」に「大樟」50号2点寄贈。自宅敷地内に「楠水画廊」を建設し作品を収蔵する。 |
2002(平成14年) |
86 |
かねてより製作中の 100号完成「大樟三代A」と名づける。 |
2003(平成15年) |
87 |
「四季の大樟」と題して、連作(10号4枚)を作成。「大樟三代B」(50号:抽象)および「孫と祖父」〔20号:抽象〕、「おじいちゃんと孫」(20号:抽象)を作成 |
2004(平成16年) |
88 |
「大樟」〔20号:抽象〕完成。8月に88歳の誕生日を迎え、叙勲される。 |
2010(平成22年) |
93 |
3月8日朝逝去。享年95歳。 |