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「楠水ギャラリー」は「本庄の大楠」を描く福岡在住の画家、嶋田隆の作品・資料・プロフィール・エピソード等を紹介している公式ホームページです。
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「大楠の誕生」
景行天皇の御事蹟に「熊襲征伐のため九州御巡幸。京都郡長峡宮にとどまられ、この辺の賊を平らげられ、三里がほど南に常盤木を植えられて、賊平定のしるしとされた」とあり、その常盤木こそ、この大楠なりとされています。天皇の御事は紀元80〜82年の頃といわれますから、大楠もまた1900年前から此所に立っているわけです。
また、その後神功皇后が三韓征伐の折、武内宿彌をつかわされ、此の楠に「異敵降伏」を祈らせ給うた傳承もあり、若木のころから神格をもつ木として人々の崇敬をあつめていたことがわかります。
「傳法寺の荘」
宇佐宮の記録には大楠のあたりを「傳法寺河内」とかいてあり、宇佐彌勒寺の末寺傳法寺という寺があると書かれています。
御存知のように、昔勢力のある人が「荘園」という名の領地を持った時代があり、「功田」「賜田」といって手柄のあった人が土地をいただく制度がありました。このあたりにも「傳法寺の荘」という「荘園」が生まれ、持主は「大神」氏でした。大神という一族は紀元五〇〇年代に都から宇佐に下ってきて、前々からあった「宇佐の神」を大いにさかんにした功労者といわれています。
「八幡さまを持ってきた。八幡信仰をつくった」「宇佐の宮を建てた」「宇佐の大祭をはじめた」などいわれていますが、そうした功績で「傳法寺の荘」を持つことになったのでしょう。
「荘」の中心は「傳法寺河内」そして又その中心は大楠。大神一族が深く結びついたわけもわかります。
「杣始(そまはじめ)の儀=御杣立の神事」
むかし「白木づくり掘りこみ柱」のやり方で家をたてますと、いくら丈夫に建てても二〜三〇年ごとには建てかえなければなりません。宇佐宮でも三十三年ごとに建てかえたそうで、その際、第一殿の「斧はじめ」は傳法寺河内の大楠のもとでおこなう、ときまっていました。
宇佐宮の宮居がはじめてできたのは、紀元725年といいますから、「杣始の儀」のしきたりも、その頃生れたのでしょう。
儀式の記録は應永25年(1418)の分から残っていますが、江戸時代中頃の享保13年(1722)11月20日の記録になりますと、たいそうくわしいもので、次の安政4年(1857)には享保の記録どおりに執行されたとしるされています。[築城町の史跡と傳説第二集 参照]
「行幸会」
宇佐宮の大祭のひとつです。元正天皇の養老4年(720)隼人の賊が叛乱をおこしてどうにもしまつがつかないので宇佐八幡におうかがいをたてたところ、「初午の日に杣楠のこけらをとり、こもで作った枕をさせ、みこしを仕立てて八ヶ社をまわれ」とおつげがあったので、その通りおこなうたところ無事隼人平定ができた。ということからこの祭が生れ、はじめは4年ごとに、やがて6年ごとにおこなわれることになったといいます。
「中世からの傳法寺の荘」
宇佐宮の主宰者としてたいそう威勢をふるった大神氏についてのべますと、奈良の大佛が造られた時には「主神司」として都にのぼったりしましたけど、其の頃をさかいに、だんだん勢力がおとろえました。そして大切な領地「傳法寺の荘」も天永3年(1110)には宇佐宮に売られ、宇佐宮では又この荘を宇治の成勝寺に寄進してしまいました。それは仁平2年(1152)のことでした。
成勝寺の方では遠くて手もとどかず、其の頃のやり方にもとづいて荘の管理を地元の豪族にまかせました。それが當時北九州で勢力のあった大蔵一族で大蔵種久―種遠(木井馬場)に住んで城井氏を名乗った)大蔵種平―種積(この谷に住んで桑田氏を名乗った)大蔵種良―種清(別府に住んで別府氏を名乗った)がこの一族でした。
ところが、間もなくあの源平の合戦で、大蔵一族は平氏の方に味方したため、戦後領地をとりあげられ、代りに此の地に入ってきたのが宇都宮氏で文治元年(1185)という年でした。それから400年間、豊前の頭領はこの宇都宮氏で各地に一族、家の子をすえて勢威をはったのでした。
戦国の時代が終るや、その宇都宮氏も天正16年(1588)豊臣秀吉に亡ぼされ、領主は黒田氏、江戸時代には細川氏小笠原氏と交代をかさねました。しかし、そうした時代の変轉にはかかわりなく大楠と宇佐宮の関係は続いています。特に平和になった江戸時代、時の領主細川氏、小笠原氏は昔からの神事祭事に力こぶを入れました。
「大楠のその後」
江戸時代中頃の寛政4年(1791)に大楠の姿が木版画に作られていますが、その説明に「周り地付廿四丈、中六丈八尺五寸、木心部空洞、一方に口あり石を以て塞ぐ」とあります。枝先に覆われた地面がまわり70メートル余り、根元まわり27メートル余り、「一木森のような姿だった」ことがわかります。それが明治34年12月20日夜 何者かの不注意で洞内から出火。 忽ち木心部を燃え上り、全樹紅蓮の炎に包まれて焼けおちたといいます。
かえすがえすも惜しまれる出来事でしたが唯不幸中の倖といいますか、第一枝が生きかえり
今の姿になったのでございます。此の樹をごらんになる方々、どうぞ大楠を「歴史の象徴」として昔をしのんでください。
解説者 松下辰章 |
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