「楠水ギャラリー」は「本庄の大楠」を描く福岡在住の画家、嶋田隆の作品・資料・プロフィール・エピソード等を紹介している公式ホームページです。

EPISODE エピソード

大楠の祠から聞こえた「ほろくとほーせー」というふくろうの鳴き声が私と大楠の最初の出会いだった。

3歳のころ、母親に抱かれて大楠の境内を散歩していると、「ほろくとほーせー」という鳴き声が聞こえてきた。
私は「あれは何?」とたずねた。すると母は、「あれはふくろう。昼間は目が見えないから、
大楠の空洞(祠)の中でじっとしているのよ」と答えた。
大楠への最初の興味は、このふくろうの声だった。
ふくろうの声を聞いてから、大楠の絵をしきりに描き始めた。
父親に「王様クレヨン」を買い与えられてからは、お絵かきにいっそう
拍車がかかったように思う。

小学校で大楠の絵を描いたら先生が教室に貼ってくれた。
「天然記念物だからかなあ。やっぱり、大事にしないといけないんだ
ろうなあ」と子供心に思った。

12歳で豊津中学校(現福岡県立豊津高等学校)に入学したが、自宅が
遠いため下宿の身となった。
中学校生活は無事に過ぎ、自宅の家族もそうなのだろうと思っていたある日、
その連絡が入った――母、危篤。
6人目を出産した母が、産後の肥立ちが悪く、とうとう危篤になってしまったというのだ。
連絡がきたのは授業中で、先生から呼ばれ、その知らせを受けた。
私は、急遽自転車で自宅に向かったが、その途中、山越えの道で自転車が滑り、怪我をしてしまった。
足から血を流しながら家に着いた時、母はすでに亡くなっていた。
母の死はもちろん悲しかったが、山越えの時の怪我が元で破傷風になり、1年休学することになった。
そんな私に、父はできるだけの手を尽くしくれた。
父は近在で一番大きな中津村(現在の大分県中津市)から1等看護婦を雇い、その看護婦につきっきりで私の看護をさせたのだ。
後に(師範学校に入学した時)、この看護婦・北野すみえさんから、万年筆を頂戴した。
母が亡くなったため、妹が急遽、女学校を退学させられた。家の仕事をするためだ。

復学した1年生の時、軍事教練があった。軍事教練には弁当を持っていかなければならなかった。
家事1年生の妹が、見よう見まねでご飯を三角にたたいて、菖蒲の葉に包んだ「握り飯」を作ってくれた。
妹は握り飯の作り方を知らなかったので「ご飯を三角にたたい」たのだが、たたかれたご飯は教練の間に棒のようになってしまっていた。
昼ご飯の時、友達から不細工な握り飯を馬鹿にされて大声で泣いてしまった。少し悲しい恥ずかしい思い出である。
1945年当時の嶋田隆

母の死を乗り越えて勉強したせいか、卒業までに成績は徐々に良くなっていった。
休学のために、5年間の中学校生活が6年間になってしまったが、良い成績で卒業することができた。
6年間の中学校生活でも、大楠の絵を描いて表彰された。 私は東京の美術学校への進学を希望していた。
しかし、父との間で葛藤が生じた。父は、私を師範学校に行かせたいと思っていたのだ。
父は家庭的な事情(母が亡くなり、幼い兄弟が下に5人いた)から、長男である私を小倉の師範学校に行かせ、将来は「裏の学校の先生」になるよう願っていた。
しかし、私は絵描きになる夢を捨て難く、師範学校への受験を拒んだ。
当時、父は呉服屋を営んでいた。父との葛藤から、家出を決意した。
10円を握りしめ、井口秀夫叔父を頼って長崎へと向かった。
叔父は、広島高等師範学校(現広島大学)を卒業して、長崎中学の先生になっていた。

その道すがら、築城駅で不良先輩に会ってしまった。
先輩に「どこへ行くか」と聞かれ、「長崎」と答えると、さらに「金は持ってるのか」と聞かれた。
「うん、これだけある」と答え、金を見せると、「じゃ、俺が切符を買ってやろう」と言われ、金を持っていかれた。
切符は買ってもらったが、虎の子のお金をかなり巻き上げられてしまった。

長崎に着くと、叔父が「今すぐ帰れ」と叱り飛ばしたが、おばさんに「まあまあ」ととりなされ、ひとまず落ち着く事にした。
長崎の叔父の家で、1年間、子守りをしたり、受験勉強したりなどして過ごした。
しかしながら、叔父の説得もあり、東京の美術学校への進学をあきらめ、師範学校への進学を受け入れることにした。
自宅アトリエでの愛用の絵筆
師範学校の入試の成績が良かったので、数学の特待生になり奨学金をもらうことになった。
数学は勉強しなくても単位が取れたので、図書館で本を読んで過ごしたり、絵を描いたりしていた。
ここでも、大楠を水彩画で描いて、美術の先生に認められた。
その先生に「大楠を油彩で描いてはどうか」と勧められ、油彩の手ほどきを受けた。

師範学校では素晴らしい出会いもあった。その後長い付き合いとなる二人の友との出会いである。
故・畑中正巳氏と後藤忠雄氏との出会いである。畑中氏は書道、後藤氏はピアノが専門だった。
3人とも専攻科に進み、ここでも行動を共にしていた。
後藤氏と私は、お互いに機会があれば東京で勉強を続けたいとよく語り合っていたが、私たちは卒業後、"共に"東京へ行って勉強することはなかった。
一時は、後藤氏と私は若松で同じ「修多羅(すたら)小学校」に勤務したが、その後、後藤先生は上野の音楽学校(現東京藝術大学)に進学していった。
私の方は、戦争(第2次世界大戦)の影が漂い始めたころ、実家近くの椎田国民学校に異動した。

2000年、自宅に画廊を建設するに当たり、畑中氏は「楠水画廊」の揮毫をお贈りくださった。
同年、後藤氏は、当時、ご自身が館長をなさっていた北九州市の音楽施設である・響音楽ホールに、古くからの友である私の絵を展示すべく奔走してくださった。
ページトップへ
TOP | GALLERY | PROFILE | EPISODE |  FILE | LINK | CONTACT
Copyright(C)2006 Group4c.All Rights Reserved